第1話:どんなことをして欲しいの僕に
「記憶というのは選択的なものだし、記憶は誤解を呼びかねないし、記憶は独自の筆を入れることで隔絶させておきたいことを隔絶してしまう。だから現実に起こったことのいくつかの側面はぼかされたり強調されたりし、他の面は根こそぎ消されてしまう。記憶というのは個人的な絵画なのであり、写真ではない。」
クリストファー・ヒルトン(イギリス人)
1998年6月、留学先のベルギーから帰国した僕は、学科の先生方への挨拶回りをしていた。 1年前の前期日程を以って日本を離れていた僕は、この年の後期に引き続き同じ講義を受講する「継続履修」という手続きを行う必要があった。実際の手続きは学事部というセクションを通じての申請になるとはいえ、一応担当教員に顔くらい見せておいたほうがよいだろうと思っていた。幸い、この手続きは恙無く進み、あるフランス人の教授からは「君の受講を歓迎する。但し、君以外全員女性というクラスを受け入れるならば、だが」というウィットに富んだお許しを頂いたものだった。
僕とCALLシステムとの出会いは、田中幸子助教授の研究室を訪れた時に彼女が発したこんな言葉からであった。
「いま学部でコンピュータを使った語学教育プロジェクトが始まっているのね。水野君はコンピュータにも詳しそうだし、自分のホームページをつくってるくらいだから、協力してもらえないかしら。」
僕にしてみれば、かねて興味のあった教育という分野に携わることの出来る、またとない機会なので二つ返事で肯んじた。とはいえ、これから自分が何に関わるのかはよく分かっていなかった。
8月末になって、英語学科のブリット教授にお話しを伺うからヒマなら来てくれと乞われ、陪席することにした。インド出身の教授は、流暢な日本語と急に早口になる英語を交えながら、コンピュータ1台で出来る教材(Standalone)と、インターネットあるいは学内サーバ上のデータにアクセスして用いる教材(Network)についての説明をしていた。確かに、教材を電子化するにあたっては最もプリミティブなポイントかも知れない。メモを取りながらふと横に眼をやると、隣に座っていたある教授がStandaloneという言葉を理解できずに"Standard"とメモしていた。それでは意味が通るはずもない。メモ書きを見てしまった僕は驚いたが、この教授を莫迦にするつもりはなかった。CALLシステムなる教材開発プロジェクトは、情報処理の専門家たちが推進したのでは断じてなく、携わっている者の多くが徒手空拳からの出発だったということである。
9月になって、学内の一室がCALLの開発室として割り当てられることになった。床面積にして6畳~8畳くらいだろうか。部屋が縦長なので狭く感じられる。中には、Windows NT4.0、PentiumIIプロセッサ450MHzという当時最高峰のスペックを誇るマシンが5台も並んでいた。また、1機35万円するデジタルビデオカメラが2台、同じくらいの値段がするはずのデジタルビデオデッキも2台あった。聞けば、このCALLシステムのために年間1,000万円の予算がついているという。
これほどの設備が整っていれば、これ以上必要なものはないだろうと思った。そしてまた、これらを操る人間の能力がないことにはどんどん腐っていくことになるだろうなとも思った。夢のような環境はすなわち、教材開発が出来ませんとは言えない状況を自ら作り上げているとも言えた。
この教材開発室の機材の設置、設定から運営まで実質的に切り盛りしていたのは、外国語学部国際言語情報研究所助手の前田泰成氏であった。理工学部数学科から大学院に進み、その後外国語学部に迎えられたという異色の経歴を持つこの御仁の凄さに気づくのはもっと後になってからのことである。
秋になり、どのような教材をつくるのかについての具体的な話が徐々に持ち上がってきた。僕が関わることになるフランス語の教材については、現在使っている"Tempo"(テンポ)という教科書の内容をデジタル化することが目標となった。
これまでは紙の教科書とテープを併用して、読解力、聴解力をつける教育を施してきたが、この方式だと、各人の上達具合によっては、もっとテープを聴かないと分からない、或いは分かっていることを何度も聞かされて退屈、という事態が発生する。これをコンピュータで各人が聞き取りを行えば、聞き取れなければ何度でも聞き返すことができ、問題が分かればどんどん解き進めることができる。いわば、理想的な学習環境が出来上がるわけだが、問題はこんな教材を誰がどんな仕組みで作るのかということであった。
僕は自分でホームページを作っている経験から、かねてHTMLというものの柔軟性に着目していた。OSの種類やバージョンを問わず、ブラウザさえ対応していれば大体は同じレイアウトを表示することが出来、画像や音声の埋め込みも容易だからである。
もちろん、当時のオーサリング・ツールの最高峰”Director”で一からプログラムを行う方法もあったろうし、その方が音声・画像を入れ込んだ教材には適している面も多かったろうと思う。それでも僕がHTMLに固執したのは、Directorやなどのオーサリング・システムを使う環境はあってもそれを使いこなす人々がいないことが大きな理由だった。よしんば誰かひとりが操ることができたとしても、それはその人の個人技になってしまい教材開発プロジェクトではなくなってしまう。HTMLならば、ワープロと同じ感覚で画像や音声を貼りこむことができ、そしてもっと大事なことには、メンテナンスが容易ということだ。もちろん、問題の正誤判定をするプログラムは書き起こす必要はあるが、HTMLならば誰でも開発に参加できるという確信があった。
幸い、正誤判定については前田助手がCGIを構築してくれることになり、"Tempo"はHTMLで開発が進められることになった。
僕自身も就職活動が始まってはいたが、出来る限りのことはしようと足しげく教材開発室に足を運んでいた。もっとも、当時の一般家庭には普及していなかったインターネットへの常時接続環境に加え、自由に使えるプリンタや外線電話が揃っているこの部屋を、就職活動のために利用させてもらうことも少なくはなかった。
1999年3月末、成果発表会なる催しがあり、僕は原田先生のアシスタントとして出席することになった。完成していた"Tempo"の一部が発表されることになっていたのである。
プレゼンテーションの中で原田女史は、今後の課題として
「プロジェクトに関わる各人がスキル向上に努めなければならない」ということを挙げていた。即ち、他人任せにしていたらスキルが身につかないし外注しているのと変わらないというわけで、正鵠を射た意見であったと思うが、意外だったのは、彼女がそれに付け加えるように
「ここにいる水野君も就職してしまいますし」と言ったところ、会場内に笑い声があがったことだった。
この笑い声の意味について、今もってなお僕はその真意を量りかねているが、会場の空気から察する限り、学者先生の世界で「一般企業に就職する」ということは研究からの落伍を意味し、こちら側の人間ではないと見なされるということではなかったか。
それを裏付けるかのように、発表会がお開きになった後、うるさ型で知られていた仏文学科の澤田教授が
「君ィ、就職しちゃうの?勿体ないなぁ」と肩をたたいてきたものだった。
僕は僕で、狭い世界で稼ぎにならないことに明け暮れる方がよほど勿体ないと思っていたから「就職しちゃう」という言われ方もおかしなものだなと思っていたが、一介の学部生が、学者の世界の価値観というものを垣間見得たことは貴重な経験だったと言える。
5月になって僕は就職先が決まり、これまで以上に教材開発に打ち込んでいった。