第0話:深呼吸して

「人間というものは、だれしも二面の性格をもつ。白と黒とが同居し、善と悪とがないまぜになり、大胆と臆病が、そして智と感が背中合わせになっている。人の、おもてにあらわれた一面のみを見て、その人の性格を『これだ!』と断定することは、もっとも、おろかしいことなのである。」

池波正太郎(作家)


「来年から、水野君に、我々と一緒に仕事をして貰うことになったんで…」
平成11年5月26日、人事担当者から電話が掛かってきたのは夜9時過ぎのことであった。長かった就職活動が、ようやくにして終わる瞬間だった。

フランス語の勉強を続けたいという理由で上智大学に入り、そのまま大学院に進むのだろうと、入学当初は自分でも考えていたほどだから、この僕が社会に出るということ、しかも総合商社という職掌を選んだということに驚く人は少なくなかったようだ。とりわけ、前年からCALL(Computer Assisted Language Learning)と呼ばれる教材開発を手伝っていた教員には、どうして進学してくれないのかとまで言われたものだった。そこまで僕のことを買っていてくれたのだとすればありがたい話ではあるが。

就職が決まってしまえば、授業はあれども気ままなもので、すっかり夏の陽気となった街をぶらついてはのんびり過ごしていた。のんびりというよりは、今まであまりにも就職活動一辺倒になっていたがために、何から手をつけていったらよいのか当惑していたというべきかも知れない。

僕は所属するサークルでは、なるべく就職内定の話はしないように心がけていた。未だ進路が決まらない人がいる中で、ともすれば嫌味に取られるような言動は出来るだけ慎もうと思っていた。就職活動で成果が出ない苦しみがどれほどものなのか、僕なりに心得ていたつもりであったから。
結局、噂は流れるべく流れ、間を置かずしてサークル全体に知れ渡るところとなったのではあるが、いずれにせよ、この超氷河期と言われるご時世に、自分が望む結果をいともあっさりと手に入れてしまった僕に対する評価というものを、変えざるを得ない人たちがいたことは間違いないだろう。

ある日、部室で後輩に声をかけると、何やら不満げな様子だった。訳を質すと、ある先輩に侮辱されたのだという。話に拠れば、ある時この後輩が自分の彼氏の話をしていた。彼が画家であるというと、その先輩は
「どうせお前の彼氏なんてヌードでも描いてるんだろう。」
と、ヤブから棒に言い放ったのだとか。
彼女ひとりの言い分を捉えて何をどう断ずることも出来はしまいが、それでもなお、僕にはとてもよく分かる気がした。この先輩 − サークルの前の代表であった偉大な人物 − との関わり合いについては以前にも記したが、この人物の内面に潜むコンプレックスを斟酌すれば、自分の持たざるものを持っている他者を痛罵せずにはいられなかったとしても無理はない。就職先が決まっていないという状況に鑑みればなおのこと。

彼女の話に耳を傾けていると、僕が記した件のエッセイについて、その先輩は激怒していたそうな。僕が書いた内容に間違いや虚偽があると言うのなら、文句なり抗議を寄せてきてもよさそうなものだが、ひたすら沈黙を守り、自分の取り巻きに愚痴をこぼすだけというのはどういうことなのだろう。昔は喧嘩早くて何人も怪我させてきたと、平素しきりに吹聴してみせる御仁なだけに、この反応はまったく不可思議なものであった。

「ただ黙ってるだけじゃ認めているのと同じじゃないか」
僕が言うと、彼女は苦笑を浮かべつつも、急に声をひそめて 、
「水野さんのこと目の敵にしてるから、気をつけたほうがいいよ。」
忠告してくれたものだった。

だが、何に気をつけるべきなのか、僕にはまだ分からなかった。