第9話:夏のはじまり
「その質問に対しては答えられないし、今は答えたくない。」
チェザレ・フィオリオ(イタリア人)
木曜日になると、僕はアルバイトに行く。
バイト先の会社に行くと、最初にして最大の難関が待ち構えている。それは、H氏という社員の方である。
普通、会社に着いて挨拶すると社員の方はみな、こんにちは、とかいらっしゃい、と声をかけてくれる。が、H氏の場合は違う。僕を一瞥するや、
「なんやおまえ。」
と言ってくるのである。そして、決まってH氏は、
「きょうの服装はなんや。」
などと僕をからかうのであった。おまけに、H氏は内勤だから一日中社内にいる。僕など格好のターゲットにされてしまうというわけだ。
「お前は大学では何学部なんや?」
「外国語学部です。」
「何語を勉強しとるんじゃ?」
「フランス語です。」
「なに? フランス語? ウソつけ。お前はモンゴル語学科じゃろう!」
7月に入って、僕は髪を短くした。思いきり刈り上げた髪形でバイト先に向かうと、H氏は僕をまじまじと眺めて、
「誰じゃおまえ?」
僕は動じずに
「水野ですっ!!」
「お前のような奴は知らん。出てけ。」
ひたすらいじめられて仕事につこうとすると、帰り支度を始めていたKさんが追い討ちをかけるように、
「水野クン、太った?」
などと聞いてくるのであった。
髪形が変わって太ったように見えたのかも知れないし、Kさんは別に悪気があって言ったのではなかろうが、女の子にいきなり「太った?」と言われればこっちは大ショックである。僕はそのショックを隠すように苦笑するだけであった。帰宅後、体重計にのってみたことは言うまでもない。
ある日、仕事中僕はH氏に肩を叩かれた。また何か小言を頂戴するのかと思っていたら、どうもいつもと調子が違う。おかしいなと思っていると、急に
「おまえ、今晩ヒマか? 晩飯をおごってやろう。」
あいにく、この日はバイトの後に別の用事があって断ってしまったのであるが、僕は突然の誘いにビックリした。そして、その理由は翌週明らかになった。
H氏に、本社転勤の辞令が出たのである。
「Hさんがいなくなっちゃうなんて、寂しいよねー。」
Kさんは泣く真似をしながらおどけていたが、この辞令にはアルバイトの面々も少なからずショックだった。なぜなら、今まで誰もがH氏の「洗礼」を何らかの形で受けていて、バイトに行けばH氏がいるのが当たり前だったからだ。
暑い中、上着をはおって挨拶回りに出かけるH氏を見ながら僕は、
(当たり前の日常が、あっと言う間に変わってしまうことがあるんだなー)
と、ぼんやり考えていた。やはり、少し寂しい。今日ならあしたに会えると思って、同じ事ばかりを繰り返していた自分を少し反省した。
こうして学んだ筈の教訓も、しかし、僕は活かすことが出来なかったのだ。なぜならこの後、僕はもっと大きな別離を経験することになるからだ。