第1話:あの日の自分に会いたい

「まっすぐ彼のところに飛んでいって、『本当に申し訳ないことをしました』と言ったら、『まあ、悪いと思ってるんだから1回はいいよ。でも2度はダメだぞ』って言いましてね。彼はまったく正しかったし、僕には何も言い訳が出来なかった。」

ジャッキー・イクス(ベルギー人)


大学1年の頃の話だから、1995年になるだろうか。僕はサークルの先輩に誘われてアルバイトを始めた。アルバイト先の会社では、与えられた事務の仕事のほかに、余所からかかってくる電話の応対もしなければならない。普段から電話の苦手な僕は、とても苦労することになった。社員の顔と名前が一致してもいないのに、取引先からの呼び出しに対応しなければならなかったし、ファクスを表裏反対に送信するミスなどはザラで、敬語の使い方も失敗してばかりであった。当時、僕以外のアルバイトのメンバーは皆、大学4年生の言わばベテランばかりで、そこへ19歳になったばかりの青二才が冷や汗たらたらで仕事しているのだから、傍目にはさぞ危なっかしく見えたことだろう。

ある日、サークルの部室で、件の先輩に会った。すると、彼女はいきなりアルバイトの仕事について切り出した。僕がアルバイトをする日に限って欠けている書類があると社員に注意されたのだという。よくよく聞いてみると、僕が何の気なしに整理していた書類は、実は、コピーを取って、M氏という社員に手渡すという決まりがあったのだ。

翌週バイト先の会社に行き、真っ青になって謝ると、M社員は
「はじめのうちは慣れないだろうが、これからは気をつけろよ。」と言い、僕にジュースを奢って励ましてくれたのであった。そして、
「君は何クンだったっけ?」
アルバイトは、「バイト」もしくは「学生」と呼ばれるのが普通だったが、この日以降、M氏は僕を水野と呼んでくれるようになった。

時が過ぎ、アルバイトの仕事に余裕を持って取り組めるようになった頃、M氏がやおら寄って来てこう囁いた。
「水野、お前の後輩の女の子はこの通知書類を書けるのか? 大丈夫か?」
アルバイトが取引先に送付する書類に記入ミスが散見され、返送されることが多いというのである。これを聞いて、僕は驚いた。後輩が仕事をこなしているか否かいうことではない。ヘマばかりをしていたこの僕がいつの間にか、あの日の先輩の立場に立たされていたという事実にである。

あれから10年以上が過ぎた。時代は二度と元へは戻れなくなってゆく。しかし、あの時の失敗がなかったら、素直に謝れる自分がいなかったら、果たして僕はいまの僕でいられただろうかと思う。そして、いまの僕はあの時の自分を忘れて、社会人面をして慢心していないだろうかと、時々自分自身に問いかけている。