死刑の存在理由1997.4.25.
「コブラ」という映画を御存知だろうか。
この映画の冒頭、スーパーマーケットに強盗が入って、機関銃を乱射して無差別殺戮を起こす。そこに、シルベスタ=スタローン扮するコブラ刑事が颯爽と現れ、瞬く間に犯人を射殺して事件を解決する。
一件落着となったところにテレビのレポーターが「コブラ」に向かって、
「犯人を殺す必要があったのか。犯人の人権についてどう思うのか。」
という質問をする。「コブラ」はそのレポーターをスーパーの中へ引きずり込み、理由もなく犯人に殺された少年の遺体の前に連れて行き、こう怒鳴るのだ。
「この子の家族に聞いてみろ!」
死刑の存在理由を問われたら、筆者は必ずこの映画の話をすることにしている。人が人を裁き、手をかけることには異論もあろう。しかし、そんなことを言っていられるのは、結局は他人事だからである。そういう人たちは、自分の肉親や友人が殺されてもなお、「犯人の基本的人権」とかいうものにしがみつくのだろうか?
先日、ペルーの人質事件が武力突入によって解決したが、これを巡る報道の一部に、「突入は特殊部隊による虐殺行為」「射殺は気が重い」といったものがあったらしいが、それではどうしろというのだろう。
果たしてこうしたことを言ってのける人たちは、日本人の人質を守るために殉職したペルー軍兵士たちの遺族の前で、同じ科白を言えるのだろうか。自分たちは絶対安全でカンケイナイと思っているから、そういうことを言えるのだ。MRTAはテロリストであり武装集団である。彼らは非人道的な行為を生業としている連中だ。そういう輩を相手にして、国家が守るべきものはなにか。
フジモリ大統領は、「犯人の基本的人権」よりも、「法治国家の尊厳」を守る道を選んだ。ただそれだけの話だと思う。