ボランティアと個人主義(後編)1998.3.1.
車椅子の学生を仲間がごく当然のように支援している光景に、筆者は少なからぬ感銘を覚えたものだ。と同時に、ボランティアとは何なのかということについても考えさせられた。
とかく我々は、ボランティアというものごとを、学芸会や文化祭のように捉えてはいないだろうか。学芸会の演劇とか文化祭の出し物といったものは、時として熱いモチベーションに支えられ、驚異的な一致団結を見せることもある。とはいえ、学芸会なり文化祭なりは、結局は自分たちの稽古なり努力の成果を見てもらう場所に過ぎず、それは決して誰かの必要なり要望に応じてやっているのではない。つまり「ボランティア活動」において我々日本人の多くは、見返りを求めないとは言っても結局は、自己満足にプライオリティをつけていないか、ということだ。
ところで日本では、ボランティアという言葉の中に、老人看護や障害者の補佐といった「弱者を助けてあげる」光景を見いだしてしまいがちだが、元来英語では自発的な志願者、有志という意味である。
そこで筆者は、ソーシャルワークなどに携わることは出来ずとも、身近な人にでも役に立つことが出来ればそれは広義でのボランティアになるのではないかと思い、出来る限りそれを実践してきたつもりだ(もっとも、筆者は口で言うほど自分に誠実ではないので、往々にして他人の期待や信頼を損ねることがあるのだが)。
例えば、旅行に行くと筆者はたいてい友達にみやげ物を買って贈るか、現地から絵はがきを送ることにしている。これは別に何かの見返りを期待しているのではなく、それで誰かを喜ばせることが出来るのならば、するに越したことはないと思っているだけのことだ。
おみやげのことをフランス語ではスーヴニール(souvenir)と言うが、スーヴニールとはそもそも記憶とか思い出という意味であり、「思い出を分かち合うための物品」を指す意味に転用されているわけだ。このように、単語の意味を手がかりにその言葉を話す人々の思考を探るのは非常に興味深く、機会を見て別項で詳しく論じていきたいと思っているが、ともかくも、「おみやげ」という言葉ひとつ取ってみても、彼ら欧米人には他者への意識が脈々と働いていることが分かる。蛇足ながら、以前筆者が海外旅行から帰ってきて、ある友達に会ったら片手を突き出して「おみやげは?」と言われたことがあった。こんな国では、どうやったってボランティア精神なんて根付きはしまいとその時は悟らされたものだが。
いまの我々を支配しているのは、自分は他者とは違うという自覚を持ちつつも、人間としての価値の機軸を自分の中に持とうとしない矛盾ではないだろうか。例えば、「誰も文句を言わないのだからどうだっていいではないか」という、いかにも戦後民主主義的な論理が堂々とまかり通っている。こうした安易な論理に依拠し自分本位に流される道を踏み出すふちで、踵を返して自らを律するのも、個人のつとめではないかと思う。それを他人に糺してもらわねばならない個人主義などありはしまいし、それが自分で出来ないのなら、他人を思いやる気持ちなど生まれはしまい。あの「ボランティア活動」なるものからわざとらしさやいかがわしさが抜けきらないのも、その辺に原因があるのではないかと思う。