第0話:小さな頃から
「幼き日の夢より、自らの力で手に入れた現実の方が素晴らしいに決まっている。」
馳 星周(作家)
恐らくは他の大学と同じように、上智大学には交換留学制度というものがある。海外の提携先の大学に留学生を派遣し、その学校からの留学生を受け入れるというもので、細かな規定はよく分からないものの、限られた枠を争って、毎年厳しい選考が行われているということは耳にしていた。
留学というのは幼い頃から何となく憧れてはいた。しかし、それに踏み切る度胸とでも言おうか、きっかけを自分で見つけるのに躊躇していた僕にとって、この制度の存在は、優柔不断な僕を後押ししてくれるものだったと言える。落ちてもともとだから、出願してみようと思った。
サークルの部室で願書に必要事項をせっせと記入していると、恐らくは交換先の大学のためであろう、英語で記入すべき欄が多数あったが、その中に"Pref."という箇所があり、英語の語彙が絶望的に欠けている僕は戸惑ってしまった。しかし、日頃マッキントッシュを操っているから、コンピュータ用語なら少しは明るい。僕はこれを"Preference"だと解釈した。しかし、どうも腑に落ちない。何を書き込めと言うのだろう。恥を忍んで英語学科の先輩に聞いてみたところ、
「"Prefecture"に決まってるでしょーっ! ったくバカねぇ。」
と一笑に付されてしまうのであった。
果たして願書は無事提出することが出来た。しかし、マンガのようなお話はまだ始まったばかりだった。
1996 (平成8)年12月のある日、僕は教室に座って授業が始まるのを待っていた。すると、友達のひとりが怪訝そうな顔をして近づいてきた。
「あれ、水野なんでいるの?」
「バカ言うなよ。オレだってたまにはマジメに授業受けるさ。」
「いや、面接ないの?」
「面接ぅ?」
「交換留学の面接、今日じゃなかったっけ?」
このひと言で僕の頭は真っ白になってしまった。願書は提出したものの、選考の面接の日取りがいつかも調べておかなかったのだ。やばい。僕は全力疾走で、面接が行われる校舎に駆け込んだ。
幸い、面接はまだ始まっておらず、係の人に控室を案内されて入ってみると、自分がいかに場違いなところに来てしまったのかを思い知らされた。皆、一心不乱に面接での問答を想定したカンペを手にしており、就職活動ばりにスーツを着込んでいる人までいる。まるで、1年半前の受験を思い出させるような光景があった。そこに僕は、息を切らせてひとり呆然としている。
これでは受かるはずがないなと半ば諦め、何の準備もなく臨んだ面接ではかなりいい加減な御託を並べていたのだが、どういうわけか僕はこの学内選考にパスしてしまい、翌97年度からベルギーのルーヴァン・カトリック大学という学校に派遣されることになった。してみると、必死に準備をして、それで選考に漏れてしまった人たちには申し訳ないという気にもなるのだが、ともかくも留学が決まって嬉しくない筈はなかった。