第2話:灰色の教室

「僕たちの関係なんて、おはよう、おやすみときてそれまでのものさ。あいつが僕と友人でいたくないことは確かなんだ。忌み嫌っているわけじゃないけど、ヤツは僕に何ももたらしやしない男だし、僕だってヤツに何かをもたらしやしない。ヤツのことは長い間知っているし、僕は何も後悔したりはしないんだよ。僕のことを好きな連中もいれば、嫌ってる奴らもいるわけで、そんなことは職業がなんだろうと同じことさ。」

ルネ・アルヌー(フランス人)


発表会は無事に終わり、僕は私物の機材のすべてを一斉に持ち帰った。その結果、サークル活動が著しく停滞してしまうであろうことは容易に想像できたが、ともあれビデオカメラは修理に出さねばならなかった。一見して修理が必要と分かるほど損傷していたのである。

この間、サークル内でどのような反応があったのか、僕には知る由もない。そもそも、サークルのミーティングが何曜日のいつ行われているのかも僕は知らされていなかったのである。ある日、部室で代表氏に会ったので、ミーティングの日程を教えて貰い「じゃあ、邪魔させてもらうよ」と言うと、僕と同輩にあたるその男は、
「邪魔だなんてとんでもない。是非来てくれ。」と、相変わらずつかみどころのない笑顔で応対するばかりであった。そして当日、ミーティングの行われる部屋に行ってみると、この代表氏、深刻そうな面持ちで話があるという。何事かと思って耳を貸すと、
「あのカメラどうなった?」
皆で寄ってたかって壊しておいてどうなったはないだろうと思いつつも、修理中だと答えた。まさにこの日、メーカーから電話があり修理代が2万円にのぼるという連絡を受けたばかりであったが、カネに関することを持ち出せばたちまち話はこじれるであろうから口にはしないでおいた。とにかく、S氏の前々からの忠告もあり、出来るだけ緊張は避けようと僕なりに努めてはいた。それにしても、壊してすまなかった、とでもひと言云ってくれればよさそうなものを、「どうなった」とはとんだご挨拶である。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、氏は続けざまこう言った。
「あのカメラはまぁ持ってきてくれなくてもいいんだけど、タイトラー(別の機材のひとつ)は元通りに置いといてくれないか?」
持ってきてくれなくれもいい、とはまたもやご挨拶だが、言葉尻を捉えて怒っても仕方がないので堪えつつも、その機材は売り払うつもりだと答えた。単なるブラフではなしに、まとまったカネが必要だった僕は手許の不要なものを手放す計画を立てていた。そもそも、僕個人の私物の行方をあれこれ詮索される言われもありはしまい。が、代表氏はなおも喰い下がってきて、あの機材はサークル活動に不可欠なものであり、使いたい部員も大勢いるから何とか考え直してくれないかと哀願してきた。そんなに不可欠ならどうして部費で購入しないのか、結局はそんな状況を招いた代表自身の仕切りのミスだろうと思いつつも、あるべきものが突然なくなれば多くの部員が路頭に迷うであろうことは明らかであった。それにしてもなお、そんなに大事な筈のものが無責任に放置され、果ては壊されてそのままなどという事態が繰り返されたくはない。この件についてはしっかりした話し合いがあって然るべきだろうと思い、「じゃあ、考えておく」と答えた。

そして、ミーティングが始まった。必要事項の連絡があった後、代表氏はやや唐突に「機材の扱いには気をつけましょう」などと言い始めた。わざとらしい演出だなぁと鼻白んでいると、
「今までサークルに機材を貸してくれていた水野くんが、これからも今まで通り機材を置いてくれることにまりました。この場を借りてどうもありがとうございましたということで」
と例のニヤケ面で言い出した。誰もそんな約束はしていないのに、皆の前で堂々と言い放ったかと思うと、代表氏はまったく関係ない話題に移ってしまい、この場にいる僕の存在は無視されてしまったのである。この光景を見て僕は内心大笑いしてしまった。権力の実質の主軸にある者たちは、「ありがとう」などというありふれた言葉の感傷をあらためて嘲笑うまでもなく、頭から全く無視して感謝の言葉なるオブラートに自らの姑息な手立てを包み直していたに過ぎない。そんなたわけたことが公然とまかり通ることがあるのかと眉をひそめる向きもあろうが、それがまさにまかり通ってしまうところに、このサークルの本質がうかがわれるとしか言いようがない。一体誰のために何のためにこのように他人の言質を歪めて推し進め、彼は一体それで何を得ようとしていたのか、今になって考えてみても一向に分からない。

僕はその時、平静を装いつつも「おいおい、自己紹介はさせてくれないの?」と言い、一応は喋らせて貰えることにはなった。僕にしてみれば、このとき初めて顔を合わせる新入生も多かったのであるが、そんなことは代表氏には関係のないことだったのだろう。僕はついに堪えきれなくなり、先ほどのやりとりを暴露した上で
「人のモノ壊しておいて『どうなった』はないだろう。」と言ってやった。もちろん、これが緊張を招くことも分かっていたが、あんな野郎の言う通りにはさせないという意思表示ではあった。
その後、ミーティングがどのように終わったのかは覚えていないが、ミーティングを休んでいたS氏からはその日のうちに連絡があり、今度はやけに強い口調で、
「代表がせっかくお礼を言ってくれたのに、君の態度は一体どういうことだ」などと罵倒してきた。どうやら、また例によって例の如く、彼や彼女に都合の良い断片のみがS氏の耳に入ってしまったようだ。僕にしてみれば、今回の騒動の責任の一端はひとの機材を勝手に又貸ししたS氏自身にあるのであって、その氏が何を言うかという気にもさせられた。大本営発表を鵜呑みにし続けるS氏が余程ナイーヴなのか、それとも彼や彼女が迫真の演技でS氏に耳打ちしていたのかは分からぬが、僕は仕方なく一部始終を説明した上で、「そんなに素っ気ない態度をとっていられるのも、あのカメラが貴兄のものではないからでしょう」とまで言ってやったら流石に反論はなかった。いずれにせよ、この騒動で僕は多くの部員から、暴言癖のおかしな先輩というレッテルを貼られてしまったに違いない。あるいは、そこまで考えていて彼や彼女があのような挙に出ていたのだとしたら、それはまさしくあっぱれとしか言いようがない。

その後S氏は氏なりに責任を感じたらしく、サークルの幹部たちに対して、水野に対して何か然るべきお礼をすべきではないかと呼びかけたらしい。しかし、発表会の実行委員長なる肩書きの女が、何やら激しい口調でそんな必要は全くないと言下に一喝してこの提案を葬り去ったという。そして、その女の意を汲んだのか何なのか、代表氏は結局何もしなかった。
別段僕が礼を要求しているわけではないが、水野が避けられているとか言う声は聞こえてくるのに、先輩が実際にあげた声に対しては取り合おうとしなかったというこの事実ひとつとって見てもこの人物の真贋が割れてしまう。そしてまた、ああした女にぶら下がってニヤニヤしている男連中というのも一体どうした手合いなのかとも思う。
「一人の反対が全体を中止させるようなら、それは民主主義ではなく全体主義の形態である」と言ったのは作家の曽野綾子だったが、その言葉の意味をまさに思い知らされる出来事ではあった。

ちなみに、修理代の2万円については当方が負担した。試みに、代表に対して修理代はどうするつもりなのかと問い質してみたことがあったが、「まあ、会計担当の人に言えば払ってくれるんじゃないの」と、文字通り他人事の対応しかしなかったのだ。サークル全体の責任を代表者が取ろうともせず、平気なツラをしているのもこの男らしいやり方だが、向こうが謝ってきてどうか弁償させてくれと言ってくるのならまだしも、僕の方からカネを受け取りに出向くというのはどうにも筋が違うので、僕はこれ以上修理代に関する話をしなかった。

人の持ち物を利用するだけ利用しておいて、謝らない、礼も言わない、済ました顔をして本人の前でウソまでつく。こうした手合いを気違いと言うほか僕には表現が見あたらない。
ともあれ、「気違い水を零さず」という諺の真理をまざまざと思い知ることになったと言えるが、この騒動の一番の犠牲者は僕ではなくS氏だったろうとは思う。
そして、何も知らされぬままでいる多くの部員たちが、いつ僕と同じような目に遭わされるかと思うと何とも心許ない、と言うよりどうにも空恐ろしい気がしてならない。
少なくとも後輩たちには、ああしたファッショに近い圧力に反発は出来ても、逆に彼らをやりこめたり、まして報復する手だてなどありはしないのだから。