第4話:とまどい

「私は他人が決めたルールの中で行動している。もし、そのルールが上手く働かないとしたら、それはゲームに参加している私の責任ではない。あくまで、そんなルールを決めた人間に落ち度があったに過ぎない。」

ジョージ・ソロス(投資家)


1950年、アメリカでジョゼフ・マッカーシーによる「赤狩り」が巻き起こった。その頃流布された「新イソップ物語」という寓話を紹介したい。
1匹のウサギが息を切らして森の中を走ってゆく。リスが呼び止めて
「あんたは何だってそんなにあわてているんだ?」ウサギが答えて
「マッカーシーから逃げているんだ。ヤツはカンガルーを狙い撃ちにしてるんだ。」
「だったら逃げることはないじゃないか。あんたはカンガルーじゃないんだから。」
「そりゃそうだが、私がウサギだってことを、どうやって証明できるのかい? あいつがそう思いこんだら、どうにもならないじゃないか。」

ところで、あの1年前のA先輩のパーティの際、勝手にデパートへ行った後輩を厳しく叱責した先輩がいた。それはT氏という直情な国士型の男で、その時実は僕もT氏と同じくらい怒っていたのだが、祝い事の席で怒っても仕方ないでしょうとT氏をむしろなだめる側に回っていた。僕がT氏の火消しに躍起になったのには理由があって、このまま言わせておくとT氏が悪者にされると確信していたからだ。事実、期待(?)に違わぬ早さで、パーティの翌週にはしっかり「T先輩は感じが悪いという声があがっている」という風説を流布されることになった。
標的は僕に限らず、一旦目をつけられたらもうおしまいということだ。僕の被害妄想でもなければつくり話でもない。次はあなたかも知れない。
あいつがそう思いこんだら、どうにもならないのだ……

そのT氏が、僕が帰国したから一緒にメシでもと言って、食事に連れていってくれることになった。いきおい話題はサークルのことになった。T氏は僕が繰り返す4文字言葉には辟易している様子であったが、あのサークルに問題点があるとすれば、「どうにかなってしまう」ことではないかと氏なりの見解を述べていた。正しい、正しくないを考える以前にどうにかなっている以上、まわりがどんな異論を挟もうと、「何が悪い」「干渉するな」ということになってしまうのではないか、と。僕も同感だった。が、その状況がどうにもならなくなったら一体どんな結末を迎えるというのか。

さて……
話がやや前後するが、帰国して間もなく僕はアルバイト先の会社に挨拶に出向いた。お土産にワッフルとチョコレートを持参したところ、本場の品だということで大いに喜ばれたものだ。
嬉しかったのは、社員たちが皆僕のことを覚えてくれていたことだ。そして口々に、また是非仕事をしてくれと言ってくれたことだった。しかし、現状では全ての曜日にアルバイトが埋まっている。もちろん僕は上級生だから、無理を言えば働くことは出来るのかも知れないが、そのように身勝手なエゴイズムがまかり通ったとき、それが集団全体に及ぼす悪影響は計り知れないものがあり、そうした行為がもたらす弊害を今までにイヤというほど味わってきたこの僕が、敢えて現況を荒らす理由はなかった。それに、社員がそのようなことを口にするのは一種のリップサービスなのだろう。
しかし、社員たちの中には、「水野がいた頃はよかった」などと漏らすひともいた。中でも驚いたのは、N氏という社員に
「水野が仕切っていれば安心して仕事を任せられるのだが、いま働いているアルバイトの中にはそうでないのもいる」
とまで言われたことだった。その話を聞きながら僕は、2年前のある出来事を思い出していた。

定時までに終わらない仕事があり、僕が働いていると内勤のH社員がにじり寄ってきた。「ワシらは日頃口には出さんが、東京の学生さんがこんな田舎の会社で働いてくれることに感謝しとるんじゃ。」
つまりは、残業などする必要はないから早く帰りなさいということなのだが、普段はウルサ型で通っているH氏がしんみりと語った科白だけに、僕には印象的だった。そして、社員の気遣いを知った以上はそれに甘えるわけにゆくまいとも思っていたものだ。
日本を離れていた10カ月の間に一体どんな変化があったというのか、僕には知る由もないが、H氏の言葉を聞いていただけに、社員からアルバイトに対する不満が公然と漏れてきたということ自体が僕には驚きだった。また、そうした言葉が、アルバイトの名前を誰よりも先に覚えてくれるN社員の口から発せられたということが、何よりのショックであった。あとになって聞かされた話では、僕が留学した後にアルバイトを始めた後輩の一人が、仕事はろくにせず無断の遅刻早退は当たり前、といった狼藉に及び、社員たちはほとほと迷惑しているということだった。

2年前から留学するまで僕はアルバイトをまとめる「チーフ」と呼ばれる立場にあり、サークル崩壊の危機にあっても会社には迷惑をかけまいと自分なりに手を尽くしたつもりだ。少なくとも、「先輩の頃はよかった」などとは絶対に言われないようにしようという目標を持っていたし、ある程度それは達成できたと自負もしている。が、その途中、一部の後輩たちから訳の分からぬ反対を受けたことがある。何が分からないといって、ある部員が
「自分がこの先アルバイト出来るかどうか、日程がハッキリする決まるまではアルバイト自体がどうなろうと関係ない」
「アルバイトは個人の問題です」
などと言い放ち、僕の計画をことごとく無視するようになった。アルバイトのシフトに混乱がもたらされたことは言うまでもない。
この人物はその後、何が何でも僕のやり方に反対するようになり、挙げ句の果てにはこの会社のKという社員に、明らかに事実に反する姑息な告げ口をして、僕はその社員から
「おまえはサークルの仲間割れの原因をつくりおって。」
などと面罵される羽目になった。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだった。
このような人種に権力を委ねることで、その後万事すべてが上手く行くようになると思うだろうか。僕はそうは思わなかったが、留学した後チーフの座はあろうことかその人間の手に渡った。そしてその結果、今日の混乱が起こるべくして起きてしまったとしか言いようがない。

「先の考えもなく、ただその場限りの劇的効果を狙った反対、破壊するだけで再建の指針もない反対、そしてただ反対のための反対は自己満足のほか何物でもない。」
というのはロバート・ケネディの言葉だが、一般論として、あらゆる意見には反対がつきものだと思う。何の反対もなく一人の意見にみんなが流されてゆくのは全体主義の危険な兆候とさえ言える。僕のやり方に間違いがあるならあるで話し合えばよいものを、どういうわけか件の人物は僕の存在を軽視あるいは無視することで解決しようとした。一体どういう行きがかりでその人物が僕のやり方に反対するようになったのか、後になってその理由の一端を僕は知ることにもなったが、余りにも浅薄きわまりないちゃちな保身への衝動が、その引き金になったとしか言いようがない。何が何だろうと、欲しいものを手に入れさえすればあとはどうだっていいということなのか。哲学のない人間が物事を達成しようとするときには、効率が第一となり、手段など、二の次になってしまうものだ。しかし、そうして手に入れたものの本質が、一体どれほどの価値を持ったというのだろうか。

しかしまた、自分が外野に立ってみたことで、組織の舵を取る人間の労苦を斟酌することもなく、物事の上っ面だけを見てそれを論うのはいとも簡単だということに、僕自身気づいてもいた。もっとも、1年前僕に後ろ指をさして好き勝手なことをほざいていた彼や彼女に、それだけの認識があったかは知らぬが。

それにしても、そんなに態度が悪い、イカレた人間が働いているのならば、社員なり上級生がきちんと注意すればいいことだろうに、叱るというありふれた想像力を誰もが欠いてしまっている現状は狂っているとしか言いようがない。もっとも社員の側にしてみれば、以前H氏が口にしたような事情で口出しはしたくないのだろうとも推察されるが。
誰もが悪いと分かっていて誰も手をつけず、見て見ぬフリで放置され、すべからくますます悪化してゆく状況。それはなんと強弁しようと、一種の地獄絵としか言いようない。