第6話:せつないよね
「マルコスが私を殺しても、それはただ殺人の成功であり、彼の勝利などではない。私と彼の、いずれが勝ったかは神だけが知っている。私が死を恐れぬ限り、彼は決して私を打ち負かすことなど出来はしない。」
ベニグノ・アキノ(フィリピン人)
帰国後間もなくして、僕は学科の助教授にパソコンの知識を見込まれ、CALL(Computer Assisted Language Learning)と呼ばれる教材開発のプロジェクトに参加しないかと誘われた。大学院の研究生でもない身でこのような企画に参加するのはいささか僭越な気がしたが、専攻分野の言語学にも関連する分野でもあろうから、良い機会だと思って企画に携わることになった。
ある日、その先生と就職活動の話題になった時、不意にこんなことを聞かされた。
「就職でも恋愛でもそうだけど、いくら好きになったって両想いじゃなきゃ絶対破綻するんだから。どんなに無理をして、あらゆる手段を使って相手をふり向かせたところで、絶対に上手く行くわけないのよ。ご縁があるとかないとか言うけど、ま、天の神様の意に背いちゃいけないってことよね。」
彼女がバツイチだということはともかくとして、僕は二重、三重の意味でなるほどなぁと肯んぜずにはいられなかった。僕が身近に経験したことから言っても、愛しきものをふり向かせることは、時としていともたやすく、呆気ないほどでもある。その一方で、いくら肘を振って叫んでみたところで、どうにも変わりようもない物事だってある。僕のことを好きな人間もいれば、嫌いな人間もいるということだ。
さて、大学の後期日程が始まった。
心のわだかまりは消えずにはいたが、対立も衝突も葛藤も、他者と過ごす以上は起こりうるものだと自分に言い聞かせて僕はサークルを離れることだけは思いとどまっていた。新入生の頃、自分が望んで加わったサークルである。自分が好きになったものを、自分からあっさり振ってしまえるほどドライにはなりきれずにいた。
11月に行われる学園祭に向け、サークルの下級生たちはその準備に追われるようになっていた。そのうち下級生のひとりから、小型のスピーカーがあったら1日だけ貸してくれませんかという要請を受けた。僕としては、諍いの原因になるなら私物は二度と貸さないつもりでいたのだが、さりとて1日貸すくらいのことで能書きを垂れるのも大人げなかろうと思い、パソコン用の小さなアクティヴ・スピーカーをひと組持参することにした。
スピーカーは部室の机の上に置いていた。部室では代表氏をはじめ何人かが作業をしていたのだが、ある時女の後輩のひとりが、何かの拍子にスピーカーを床に落としてしまった。彼女は「あっ」と声をあげオロオロし始めた。僕はその時ちょうど、部室の奥の別室にいたのだが、代表氏は果たして僕の存在に気づいていたのかいなかったのか、その下級生を遮るように
「いいから黙っていろ!」
と繰り返していた。僕は陰から一部始終を見届けた上で部室に出て、ややわざとらしくもあったが「何かあったのか?」と尋ねてみた。すると代表氏はすました顔でこう言い放ったものだ。
「いや、何でもない。」
もちろん彼の持ち物ではなかったから、何でもないのも当然だろう。僕が何も言わず黙していると、嘘に糊塗された状況に耐えきれなくなったのか、その後輩が事の顛末を説明して素直に詫びてきた。スピーカーは別段外傷もなくまったく正常に動いたので僕はそれ以上の問題にはしなかったが。
それにしても、あの代表氏の鮮やかなまでのしらじらしさには怒る、呆れるという次元を越えて、ある種の感動すら覚えさせられたものだった。あの端倪すべからざる人物との関わりを重ねて眺めてみると、彼自身の実は複雑な心理構造(コンプレックス)が透かされて見えてくるような気がする。そして、ああした人種によって統御される限りにおける組織の本質もまた。
結局、嘘はそれ以上の価値を持たず、その嘘を隠しうるものがあるとすれば、それは別の嘘にほかならない。その積み重ねが拭いようもないほど大きくなってしまった時、そして、その嘘を指摘し弾劾する人間が現れた時にはどうするか。もっとも確実なのは、その人物を「消す」ことだ。消すといっても殺すわけにいかないとなれば、どうするか。その人物のクレディビリティを失墜させることだ。あいつはいつもデタラメなことばかり言う気のふれた奴だという印象を与えればよい。そして、その人物があたかもいないかのように言動を封殺し続けることだ。僕が帰国後経験してきたおかしな出来事の連続はまさに、僕が消されようとしていたことにほかなるまい。
これはあくまでも憶測だが、この連載が公開されればすかさず、「水野の述べていることはすべて嘘でデタラメだ」という風説が流れるのではないか。しかし、もしもこのストーリーが嘘ならば、サークルの長老部員がデタラメな話を創作して僕に吹き込んでいたことになる。そして、バイト先のベテラン社員までが神妙な顔つきで僕に作り話を耳打ちしていたことにもなる。そうすることで彼らが何を得ようとしていたというのか?
また他方では、「水野はホームページをつかって中傷誹謗を展開している」といった展開も可能かも知れない。だが、批判と非難の意味を取り違えてはいけない。具体的に言えば、中傷とは「水野君が避けられている」とかいう声をあげて人を貶めようとすることであるし、誹謗とはありもしないことをバイト先の社員に告げ口したりすることである。
あるいは、「水野は諍いの種をばらまくイヤな奴だ」といった批判もあるかも知れない。しかしそれは、向こうの方が刀を抜いてきたからこそ、こっちも鯉口を切らなければならなくなったというだけのことであって、そんな論理はさしづめ、「ケンカをするのは悪いひと」などという小学校の学級会レベルのものでしかない。そもそも、ひとのものを壊して謝罪も弁償もしないという事実に立ち返ってみれば、どっちが諍いの種をまいているのかは自ずと分かることではあろうが。
繰り返すが、これらはあくまでも憶測である。ただ、これまでも論点を微妙にずらした姑息な攻撃は手を変え品を変え展開されてきたし、今後の展開がたやすく読めてしまうだけに呆れるよりほかないのである。
以前、さるOBと話していてこんなことを言われた。
「結局、そこまで読み切ってしまえるというのはお前の頭がいいんだよ。」
しかし、本当にそうだろうか。本当に僕の頭が良いのだったら、もっと上手く人心を収攬し、敵をも味方に引き寄せる技術があって然るべきではないか? これは負け惜しみに過ぎないが、もし僕自身に彼や彼女のように、権力を振りまわす能力や徹底した自己中心主義の意志を持ちあわせていたならば、それに執着しそれを行使することで、このサークルのためにもっと役にも立てたろうとつくづく思うが。しかしそれは、僕が自らの意思で選んだ生き方の結果である限り負け惜しみに過ぎず、負け惜しみである限り、僕の人間の器量としての限界としか言うよりない。
学園祭は何とか無事に終わり、季節も変わった。