第6話:耳をすませば
「人間は神を創造した。その逆はまだ証明されていない。」
セルジュ・ゲンズブール(フランス人)
僕は小学校から高校まで同じ学校で過ごした。カトリックの学校だったから、「道徳」の代わりに「宗教」なるキリスト教の授業があり、今にして思えばかなり胡散臭い説教を聞かされた覚えがある。
ある神父は、授業でこんなことを言っていた。自分の父親の遺言で、実家の窓という窓、扉という扉には一切鍵をかけていない。つまり、神様の教えを守って他人を信じようという話なのだが、都会の現実生活でこんな絵空事が通用するだろうか。あの神父の教え通りに鍵をかけずにいて、その家に泥棒や殺人鬼が押し入ってきたらその責任は誰が負うのか。
僕はキリスト教的環境にどっぷり浸かっていただけに、余計に信じなくなったと言えるかも知れない。何せ、校長(神父)が校長室で生徒の母親にセクハラ行為に及んだだの、理事長(これも神父)が赤坂の高級クラブに通っているだのといった噂が公然と流れるのである。
だが、そんな中での例外中の例外、小学校のY校長先生について語ろうと思う。
Y校長は重厚にして温厚、カトリックの神父でありながら「ご闘病中の天皇陛下のために祈りましょう」とミサをひらいたり、ミサの折、信者でない生徒がパンを所望すると、「キリストの身体になっていないパン(=儀式を経ていないもの)ならあとで校長室に来ればあげましょう」と仰って実際にわけていただいた友達もいたほどである。こんな言い方は反則だろうが、まるでホトケ様のような方だった。
一般に朝礼での校長先生のお話と言えば、退屈の代名詞のようなものだが、Y先生のお話は非常に印象深いものが多かった。そのうちのひとつを紹介したい。
曰く、我々はものを聞く「耳」を持っている。人工のマイクはあらゆる音を拾ってしまうけど、我々が耳をすませば、望むものだけを聞き取ることができる。ものを見分け、聞き分けるのは自分自身なのだ、ただ漠然と見過ごしてしまうのではなく、自分の道を見定めなければならないというお話だった。
この話は実際のところもう少し宗教がかっていたような気もするが、それを抜きにしても心に響くものがありはしまいか。Y先生は毎週、お話の中で必ずといってよいほど「十二分に発揮して」というフレーズを用いておられた。十分ではなく、十二分でなくてはならない - 穏やかな口調で語られるこの言葉を、今でも僕は時々思い出す。
中学生になって、Y校長は突然旅立たれる。先帝陛下の崩御から2年後のことだった。